| ２ 「──それでは、そろそろ、朝倉先生のあとを継ぐ、将来有望な若い音楽家の皆さんに、その才能をご披露していただきましょう」 進行役の言葉に、鷹生は軽く伸びをすると、今回演奏するメンバー達とともに、あらかじめ用意されている控え室に向かうことにした。と、暁人が寄り添うようにしてそれについてくる。 「あの、鷹生……大丈夫？」 「何がだ？」 絨毯の敷かれた廊下で、可愛らしい小さな顔を気遣いでいっぱいにして自分を見上げる暁人に、鷹生は思わず微笑んでしまった。 「ううん…。あの、なんだか、ごめんね……」 「だから何がだ？ お前は俺になにか悪いことしたのか？」 「えっ、あの……さっき君に嫌な思いをさせちゃったと思って……」 その困惑した顔が可愛くて、無造作に言ってやると、暁人は更に慌てた様子で言葉を続けた。 「あの、来る前にも話したけれどさ……朝倉先生はとてもいい方なんだけれど、伸一さんはちょっと難しい人だから。それに彼、前から今年度のコンクールの最有力候補、って言われていて……」 「そこに、俺みたいな野良犬が急に出てきて、賞をかっさらっちまったわけだ。そりゃ怒るな」 苦笑しながら言った鷹生に、暁人は顔を真っ赤にして叫んだ。 「何言ってるんだよ！ 君がコンクールで大賞を取ったのは実力じゃないか！」 「ああ、わかってる。だから俺のせいじゃないぜ。それに、お前のせいでもないだろ？」 暁人は驚いたようにつぶらな瞳を見はり、それから素直にうなずいた。 「うん、ありがとう。どうか、あんな人たちのことなんか相手にしないでね」 「決まってるだろ、そんなの」 実は鷹生は、その辺りの事情はとっくの昔に暁人の祖母から聞いていたし、正直な話、自分がなんとも思っていない人間に好かれようと憎まれようと、まさにどうでもいいことだったのだ。 考えてみればあの伸一って奴、暁人のことも妬んでるのじゃねえか、とふと気づいた。例によって当人は全然気がついていないようだが、育ちが良くてこういう場に慣れた暁人の立ち居振る舞いはさすがだと思う。鷹生から見ても、有名な演奏家達にもずいぶん可愛がられているようだったし、あのじいさん先生だって、孫以上に目をかけているみたいだったから……。 ──などと思いめぐらしていると、暁人がなおも言った。 「ごめん……僕、君のこと上手くフォローできなかったから、なんだか情けなくて。君、これから大事な出番なのに」 そのべそをかいたような愛らしい面差しに、鷹生はちょっとにやけてしまった。純粋に心配されるのが嬉しくて、つい、いたずら心を起こしてしまう。 「それなら、キスしてくれよ。そしたら落ち着くから」 耳元でそうささやくと、暁人はまっかになった。けれど、な？ ともう一度耳元で囁くと、暁人はそっと鷹生の手を引き、自分から誰もいない奥の階段の方に連れていくと、そっと唇を合わせた。 「……！」 暁人は触れるだけのつもりだったようだが、鷹生はすぐにその華奢な身体を強く引き寄せ、柔らかな唇を強引に割った。 「んっ、あ……」 びくん、と暁人は腕の中で震えたが、鷹生が差し入れた舌に、ためらいながらもすぐに自分の舌を絡ませてきた。その優しく温かな感触と、息が詰まるのか微かにもれるあえぐ声、そして自分の胸に食い込む細い指の力に、背筋がぞくぞくしてくるのがわかる。落ち着くどころではなかった。 こいつの身体は、ひょっとして特別なんだろうか、と鷹生は時々思う。ほとんど毎日のようにキスしているのに、その度に自分にこれ程感じさせる力があるなんて……。 「……すまん、喘息、大丈夫か？」 それで、余裕を持った行為のつもりが、つい激しいものにかわり、ようやく唇が離れた時には、二人はしばらく、荒い息を弾ませて見つめ合っていた。まだ焦点の定まらないような瞳をした暁人は、妙に色っぽくて、見ていると更にいけないことをしてしまいたくなってしまう。 「うん、平気。……ね、そういえば鷹生、今回は着替えるの？」 暁人に、ふと我に返ったように聞かれ、鷹生は急いで笑みを浮かべて首をふった。今夜のパーティがどれくらいの規模かわからなかったのと、優希恵の指示もあって、念のため、着ているタキシードの他に、夜の演奏会の正装である燕尾服も用意していたのだ。 「いや、人は多いが正式の演奏会じゃないんだし、阿久津の奴も改まるつもりはないそうだから、俺もこのままタキシードで出ようと思う。俺一人正装するのも場違いだろうし、俺がトリ（最後に舞台に登場すること）で出るのでもないしな」 今夜は鷹生と勇を含め、六人の若手が演奏することになっているが、トリはさっきの伸一だった。 「そっか。でも……つまらないなあ。青嵐の演奏会だったら、絶対違うのに……君の燕尾服、見たかったのにな」 うなずきながらも心底残念そうな暁人に、鷹生はつい、またにやりと笑って聞いてしまった。 「なんだ？ この格好じゃみっともないのか？」 「えっ、違う、違うよ！ 君は、裸の時だって世界一かっこいいよっ！」 ──その言葉に、鷹生は一瞬呆然とし、暁人の方は、言ってから意味に気づいたようだった。そして、同時に二人は、耳まで真っ赤になってしまった。急に、ぎこちない会話になる。 「……あのさ、その、もうホールに戻れ。まだお前に会いたがってる偉いさんが、一杯いるんだろ？」 「う、うん、そうだね……」 肩を並べて廊下に戻ると、皆、もう控え室の方に行ったらしく、人影はなかった。それでも暁人は、名残惜しそうに鷹生を見てから、あわててホールに戻っていった。 それを見送りながら鷹生は、あいつ時々、とんでもないことを言うよな……と、ぼんやりと考えていた。そこが可愛いくて、面白いんだけど……などと首をふりながら、きびすを返しかける。 ──それで、つい油断して、まわりの気配に気づかなかった。 「……！」 ふいにすぐ近くの角から、鉄パイプが繰り出され、足元をなぎ払われてはっとした。とっさに飛び上がったが、よけきれず、右足首がしたたかに打ち据えられ、いやな音が響いた。思わず顔をしかめたが、再び相手がそれを構えなおし、殴りかかってくるのを軽くかわして、隙だらけの腹を思いきり蹴りつけた。 相手は悲鳴を上げて鉄パイプを取り落とし、もう一人後ろで身構えていた奴にぶつかって一緒にうずくまった。鷹生はパイプを拾おうとしたが、別方向から新たにもう一人、今度は素手で殴りかかられて、とっさに遠くまで蹴飛ばすことしかできなかった。身をかがめてその相手をやりすごし、飛びすさる。足に少々痛みを感じた。 「…なんだ、またお前らか」 鷹生は眉をつり上げ、うんざりして彼らを見返した。連中は全部で四人いて、身構えながら鷹生の行く先に立ちふさがっている。一番後ろにいるのは朝倉伸一だった。他の三人は、確かパーティ会場にいた、彼の取り巻きである。 実は彼らは今日だけではなく、コンクールに出場した頃から、何かと鷹生に馬鹿げた言いがかりをつけてくるのだ。大したことではないので、鷹生はずっとまともに相手にせず、むろん、優希恵や暁人にも話さないでいたのだが、ここまでされるとさすがに鬱陶しかった。 「俺は、お前らの相手している暇はないんだ。さっさとそこをどけよ」 「……ずいぶんと偉そうな口を聞くじゃねえか、クソ野郎が」 こっちは四人いる、しかも相手はケガ人だ、という余裕を感じているのか、連中は嘲笑いながら、彼を聞くに耐えない言葉で罵り始めた。取り巻きの連中が、迎合して言う。 「全くっすよ。ちょっと賞をとれたからっていい気になりやがって」 「こんなクズが、ピアノなんて弾くこと自体が間違ってるんだ」 「ああ。何せこいつの父親、犯罪者なんだぜ。しかも、刑務所の中でくたばったんだってよ！ だからこいつは、クズの中のクズってことだ！」 ことさらに声を上げてそう言った伸一に、鷹生はかすかに形のよい眉をつり上げた。取り巻きが実にわざとらしい笑い声を上げる。 「……」 ──けれど、鷹生は不思議なくらい動じていない自分に気がついていた。以前は、父親のことを言われるのだけは絶対にいやだった。けれど、暁人と想いが通じ、ピアニストとして独り立ちを始めた今、もう、それはどうでもいいことになりつつあった。自分のことを虐待していた父親を、許すことはまだ出来ないが、血のつながりはもうどうしようもないと思っている。 それに、こんな罵りの言葉は、別に彼らでなくても、施設で育った子供の頃からいやと言うほど聞かされていた。身近にいる誰かを傷つけ、見下していないと不安で仕方がない、という、脆弱で馬鹿な奴はどこにでもいるのだ。 いや、自分だって、ほんの一年と少し前までそうだった。あれほど純粋な想いを捧げてくれた暁人に、自分は理不尽な憎しみをぶつけ、さんざん傷つけていたのだ。なのに彼は、無垢な心で、そんな自分を全て受け入れてくれた……。 そんな思いが、心の中を一気に駆けめぐり、彼らを本気で相手にすることが、ひどく馬鹿馬鹿しく思え、鷹生は軽く肩をすくめた。 ──しかし伸一は、あくまでも平然と受け流しているその姿に苛立ったようだった。彼はさらに口汚く叫んだ。 「あんな、九条の出来損ないなんかとつるみやがって。あのチビ、下手くそなくせに、昔からやたら偉いジジィやババァに気に入られてやがるんだ。どうせ、お前もそうだろうか、あのケツでも使ってたらし込んでやがるんだろうよ！」 「……！」 ──途端、鷹生の心が、カッと燃え上がった。 「うっ……？」 「ぎゃあっ！」 一瞬、前にいた三人は、何が起こったのか全くわからなかった。彼らの目には、鷹生の手が、まるで生き物のように長く伸びたように見えた。そして次の瞬間、一人は顔に強烈な拳を喰らい、一人は壁に叩きつけられ、そして最後の一人は、さっき蹴られたのと同じところをまた正確に蹴り飛ばされて、十数秒足らずの間に、三人とも床に延びてしまったのだ。 伸一は一瞬、間抜けな顔でぽかんとしていた。が、急に真っ青になると、タキシードのポケットから、いきなりナイフを取り出した。通販か何かで買ったらしいアーミーナイフだ。 「こ、この……！」 その刃をこちらに向けて、伸一はやみくもに襲いかかってきた。予想外の反撃に、鷹生は急いで身をかわしたが、足首が痛んでよけそこね、タキシードの襟元が、さっと切れた。顔をしかめながら、彼の手首を無造作に掴み、軽くひねり上げる。 「ぎゃっ……！」 伸一は情けない悲鳴を上げて、あっけなくナイフを落とした。鷹生は落ち着いてそれを拾い上げると、彼の身体を壁に押しつけた。 「黙れ。俺はこの手の修羅場は、それこそ生まれた時からくぐってる」 鷹生は、恐怖に歪んだ伸一の顔を近々とのぞき込み、冷ややかに言い捨てた。その時の伸一は、おそらく、ただの玩具だと思って振り回して遊んでいたものが、生きている虎の尻尾だと気づいた子供のような気分だったに違いない。 鷹生はゆっくりと、怯えきった伸一の右手を掴み、やはり壁に押しつけて顔のところまで上げさせると、小指の先の、金をかけて手入れしているらしい爪と肉の間にナイフの切っ先をピタリとあてがった。彼の瞳が、更に大きく見開かれ、白目が醜くむき出しになった。 それを、鷹生は息がかかるほど近々とのぞき込み、あくまで冷静に、ゆっくりと言ってのけた。 「今度暁人を侮辱したら、てめえの指全部、きれいに爪はいでから切り落としてやるからそう思え」 そして、一瞬手をひらめかせた途端、今度は、伸一の首の皮膚が、ほんの薄皮一枚くらいの深さで切れた。五センチほどの細い赤い線が首の横に浮く。 「……！」 その手が離れると、伸一は目を見開いたまま、ずるずる床にへたり込んだ。どうやら恐怖で、まともに身動きも出来なくなったらしい。 鷹生は念のため、ナイフを取り上げると、髪をかき上げ、タキシードの襟元を直した。それで、その胸元が思ったよりざっくりと切られているのに気づくと、初めて少し困ったような表情を浮かべた。そして、軽く足を引きずりながらも、足早に控え室へと向かった。もうその頭の中からは、廊下で倒れている連中のことは、きれいさっぱりと消えて無くなっていた。 |