| ２ 「だめじゃないか、真澄。あそこで親戚の方に、あんな態度を取っちゃ」 「うん……ごめんなさい、父さん」 その、ほぼ一時間後。 真澄はホテルの廊下を、父の車椅子を押して歩いていた。大理石張りの床に、天井はアーチを形取り、ところどころに花も飾られた豪奢な廊下である。体調のすぐれない父のため、今夜は親子でこのホテルに泊まる予定なのだ。 だからパーティを早めに切り上げ、誰もいないこの場所に出たのだが、そのとたん、父にそう、たしなめられてしまった。真澄はうつむいた。確かに子供っぽかったよなあ、と思う。 養子の自分を、分け隔てなく可愛がってくれた父と、憧れの兄が侮辱されたと思い、カッとなってついあんな態度をとってしまったけれど、やはりまずかったようだ。特に後から戻ってきた兄は、明らかに迷惑そうな様子だったので、真澄はかなりヘコんでいた。 「──だが、ちょっとだけいい気分だったな。なかなか格好良かったぞ、お前」 だがふいに、父がそうつけ加えたので、真澄は目を見張ってその顔をのぞき込んだ。父はいたずらっぽい表情を浮かべている。真澄は思わず吹き出し、それからわざと真面目な顔で言った。 「あのね、フォローしてくれた父さんもなかなか、かっこよかったよ。さすが年の功だね！」 「何、生意気言ってるんだ、子供のくせに」 父がそう言い、親子は顔を見合わせ、声を揃えて笑った。 「──父さん、疲れたでしょ？ 部屋に戻ったら、少しだけ食べてもう休もうね。ルームサービスで、お粥を予約してあるから」 「そうだな、そうしよう」 父がうなずくのを見て、真澄はまた微笑み、それから見えないように顔をしかめた。今日、電話で頼んだ時の、係の対応の悪さを思い出したのだ。メニューに、いつでもお届けします、と書いてあるのに、相手は明らかに面倒そうで、真澄が子供だからと思ったのか、『その時間だと注文する方が少ないんですよねえ』などと言ったのである。だが部屋番号を告げると、それで東条家の人間だとわかったのか、まるで手のひらを返すように、急に低姿勢になったのだった。 ──東条の人間じゃなかったら、違うのかなあ……── その時の不愉快な気持ちが思い出され、思わずため息が出る。 「ん？ どうした、真澄？」 「ううん。じゃ、早く行こうね。おれもパーティじゃ食べてないし、お腹空いちゃった。ここＢＳあるから、今日放送の、父さんの好きな純也・ロアーノさんのオペラが観られるし」 ことさら明るく言い、父がうなずくのを確かめて、真澄はエレベーターホールに向け、元気よく歩き出した。その時、 「えっ……!?」 いきなりその車輪が、がくんと前に落ちそうになり、真澄は息を呑み、必死で踏ん張った。 「ご、ごめん！ 父さん、大丈夫!?」 「ああ、お前こそ平気か」 あわてて前をのぞき込み、ぎょっとした。 このエレベーターホールの前は、ポーチのように張りだした、幅の広い階段がわざわざ数段、かなりな段差で設けられていたのだ。贅沢な雰囲気を出すためなのだろうか。スロープもない。エレベーターに乗るには、そこを降りてホールに出なければならないのである。 真澄は絶句した。このホテルに来た時は、部屋に上がるルートが違ったので、このことに今まで気がつかなかったのだ。 ──でもまさか、こんなところに階段があるなんて……── どうしよう、とうろたえ、周りを見回す。もう一つのエレベーターホールは遠いし、そこも段差があるかもしれない。だが他に職員の姿はなく、真澄一人ではこの段差を、車椅子ごと父を抱えて降りるのはどうしても無理だった。 「真澄、父さんなら大丈夫だぞ、これくらいなら降りて……」 様子に気づいた父がそう言って腰を浮かしかけたが、辛そうに顔を歪めた。少し前に受けた手術の後遺症で、父はまだ自力で立つことが出来ないのだ。 「あ、ううん！ だめだよ父さん、動かないで。ちょっとだけ待っててね！」 父を押しとどめると、真澄はもう一度、周りを見回した。ずっと向こうに職員呼び出し用の電話を見つけ、大急ぎでそちらにきびすを返そうとする。その時、 「──どこに降ろす？」 ふいに声が聞こえ、真澄は飛び上がりそうになった。会場脇の控え室にでもいたのか、龍彦がこちらに大股で歩み寄ってきたのだ。 「えっ、で、でも……」 真澄は当惑したが、龍彦の促すような視線に心を決め、言った。あまり長居していると他の親族に気づかれるかもしれない。そうなっては父が気の毒だと思ったのだ。 「ありがとうございます。そのエレベーターの前に降りたいのですが……」 「──失礼します、会長」 龍彦はうなずいてそう父に告げると、ひょい、と車椅子の後ろ側に立ち、両手で椅子を抱え上げた。父は呆然としていたが、すぐにうなずいた。真澄があわてて前に回り込み、車椅子の前部を持ち上げ、後じさりするような格好で二人がかりでゆっくり段差を降りる。 「……」 そうして運ぶと、かなりな重さの筈のものなのに、真澄はずいぶん楽だった。父の気遣わしそうな視線を感じながらも、思わず龍彦を見る。龍彦は慎重だが確かな仕草で、段差の下まで車椅子を降ろしきった。 真澄は思わず大きくため息をついたが、龍彦はそのまま、さっさと車椅子をエレベーターの前まで押していった。そのままボタンを押している。 「あ、す、すみません……！」 息を弾ませながら真澄は彼に近寄った。龍彦は息も、身なりも全く乱していなかった。真澄や、礼を言おうとした父を押さえ、彼は冷ややかに後ろに目をやると、また真澄に視線を戻し、こう言い放った。 「無駄に豪華なくせに、バリアフリーが全く出来ていないな。総帥にも伝えたが、他にも行き届かないことが多すぎる」 「……！」 その言葉に、つい、うなずきかけてしまい、真澄ははっとした。言った後も、彼は真澄を見つめたままである。これまで東条家の人間が、一族の前でそんな批判を言うことはなかったのだ。しかもここは一族が経営する当のホテルである。 だが、ホテルに関しては、龍彦の言うとおりだと思った。ついで、さっきパーティの席で、総帥が不機嫌に信治を呼び寄せたのは、龍彦が進言したせいだろうか、とふと気づく。 「……あの、榊原さん。本当にありがとうございます。どうかこのことは……他の方たちには黙っていて頂けますか」 急いで気を取り直し、彼を懸命に見返して言う。と、龍彦は軽く肩をすくめた。 「他にも黙っていた方がいいことがあるようだな。ずいぶんと楽しそうに話していたようだが」 言われて真っ赤になる。何故そんなことまで……。 「榊原さん、それは私が……」 父が身を乗り出してそう言いかけるのを、龍彦は軽く手をあげて制した。 「そのご心配はありません、──着いたようです」 ちょうどエレベーターの扉が開いた。真澄は急いで龍彦に代わり、車椅子を押して中に入った。父に気遣いをさせたくなかったのだ。素早く泊まっている階のボタンを押す。ちょうど龍彦とまた真正面から向かい合う形になった。 「榊原さん、色々、ありがとうございました。後はもう大丈夫ですから……」 真澄がそう告げた時、龍彦はふいにまた、かすかに口元に笑みを浮かべた。茶色の瞳が、真澄をのぞき込むように見つめる。そして彼は、ごく低い声でこう呟いた。 「そう遠くないうちに、また会うことになる」 「えっ……？」 真澄が思わず聞き返そうとしたとき、磨き上げられた金縁つきのエレベーターの扉が閉まり、二人の間を立てきった。あっという間に彼の姿が見えなくなる。 「……」 一瞬、真澄は開くボタンを押し直そうかとためらった。だが思いとどまり、エレベーターはそのまま、滑らかに上昇していった。 「真澄、どうした？ 榊原さんが何か言ったのか？」 父が声をかける。真澄はあわてて笑みを向けた。気遣いをさせたくなかった。 「ううん、なんにも。ほら、父さん、着いたよ。手伝ってあげるからお風呂入ろうね」 言いながら、車椅子をエレベーターから降ろす。わざと元気な足取りで、真澄は廊下を歩きだした。けれど、そうしながらも、今の龍彦の言葉が脳裏に浮かんでくるのだった。 ──そう遠くないうちに、また会うことになる── 意味が分からず、真澄は首を振り、それから笑顔で父を部屋に導いた。けれど何故か、どうしてもその言葉と、彼の茶色の瞳が、脳裏に浮かんでくるのだった。 ふとのぞいた部屋の窓からは、かすかに赤みを帯びた月が見えた。夏が始まるのだ。 ＥＮＤ |