| １ 「あれ……？」 パーティ会場に入った東条真澄は、思わず足を止めた。 会場のやや奥に、ひときわ大きな人だかりが出来ている。てっきりその中心に兄がいると思ったのに、どうも違う様子なのだ。 「──真澄」 押していた車椅子から、父が声をかけた。 「あ、ごめんね父さん。ええと……兄さん！」 真澄はあわてて気を取り直し、周囲を見回した。人だかりのやや外にいる兄の洋介を見つけ、ほっとする。車椅子の向きを変え、父を気遣いながらも急いで近づく。 七月中旬、ここ、都心にあるクィーンズホテルでは、日本を代表する企業の一つ、東条グループのパーティが開かれていた。 東条グループは血縁で固められた、一族経営の企業グループである。このクイーンズホテルもその系列に当たる。 彼らは一族の絆の強さを確認させるため、年に一度、総帥を中心に、グループ内企業の役員と家族たちがこうして集う決まりになっているのだ。床に大理石が張られ、夏向きにオフホワイトのビロードと、純白のレースのカーテンがかけめぐらされ、巨大なシャンデリアが下げられている大広間には大量の料理と酒が用意され、すでに大勢の客たちで一杯になっている。 父や兄にも内緒にしていたが、十七歳の真澄は、このパーティに出席するのがいつも少し憂鬱だった。けれど今度ばかりは、わくわくしながら現総帥の末子である父とともに出かけたのだ。 去年の秋、兄、洋介が、二十八歳の若さで東条建設社長の座を引き継ぎ、父は会長となって一線から退いた。東条グループ内でもその若さで社長となった者はこれまでいなかったのだ。それに兄はずっと、次期総帥候補の最有力候補として、一族の中でも注目されていた。 今回はいつも憧れの存在だった兄の、社長に就任後、初めてのパーティなので、真澄はもちろん、彼が座の中心なのだろうと思っていたのだ。ここ数年、病気がちでこういう席には顔を出さなかった父が、病をおして出席したのもそのことを予測したからである。そして、やはり体調を崩している母の代わりに、真澄が車椅子を押してそのお供をしたのだった。 「──会長！」 無言でグラスを手に、他の親族たちとともに佇んでいたタキシード姿の兄は、二人の姿に気づくとふいに満面の笑みを浮かべた。声を張り上げて父をそう呼び、手を広げる。 「来てくださったんですね。ありがとうございます！」 ややとってつけたような笑顔だったが、真澄はほっとした。兄は元気そうだ。 社長に就任して以来、兄は多忙で、ずっとすれ違いが続き、まともに会ったのは一週間ぶりだった。兄の声に、周囲の客たちがふり向き、一斉にこちらを見る。 ──するとふいに、一人の男が、視界に飛び込んできた。 真澄は目を見張った。すらりとした、引き締まって強靱な身体つきの、長身の青年だった。 兄よりやや地味なタキシード姿だが、かえってそれが彼の端正で、冷たく冴えた容姿をさらに際立たせている。 ──榊原、さん……？── 瞬きし、見つめ直す。彼には見覚えがあった。兄より二歳ほど年下の、親族の一人で、何年か前まで、総帥の自宅やパーティなどで、数回会ったことがある。だがその時よりも精悍に見えた。 ──あ、そうか。みんなが囲んでいたのは、彼なんだ……── ごく自然に真澄はそう思い、何故そう思うのだろうと当惑する。その時、彼が顔を上げ、こちらを見返してきた。 ドキリとする。あわてて軽く目礼し目をそらした。と、 「来たか、茂」 男の傍らにいた、東条グループの八十歳になる現総帥が厳かに声をかけてきた。総帥がすぐ傍にいるのに気づかなかったのだとわかる。これまでそんなことはなかったのに。 「はい、座ったままで失礼いたします、総帥。今日は下の息子の真澄も連れて参りました」 「お久しぶりです。お招きありがとうございます、総帥……」 父が丁寧に頭を下げ、真澄も急いでそれにならった。それから、兄がいかにも甲斐甲斐しそうに傍らに寄り添うのを見、真澄は大人たちの邪魔にならないよう、そっと数歩下がった。 「だいぶ元気になったな、茂。洋介も新社長として頑張っているようだが」 いつものように総帥は真澄のことは完全に無視し、父と兄にだけ話しかけている。周囲の何人かの親戚たちも同じで、真澄を押しやるようにして彼らに近づこうとする。だがあまり気にはならず、真澄はそのままそっと、人だかりから外れた。幼い頃からこんな風だったからだ。 真澄は三歳の時、実の両親をなくし、東条家に養子として引き取られたのだった。血縁を何より重んじる東条家では、まったく東条とは血の繋がりのない自分の立場が微妙なものだということは、とうの昔にわかっている。だから普段から、こういった集まりにはあまり顔を出さないようにしているのだが、今日は車椅子の父が心配で、ついて来たのだ。むろん、出来るだけ父や兄の迷惑にならないよう、大人しくしているつもりである。 総帥は男を振り返り、老いた顔に笑みを浮かべた。 「こいつには茂も何度か会っているな。長男の一の忘れ形見の、榊原龍彦だ。最近、ニュースでも取り上げられたが、うちの娘婿どもの一人が経営をしくじったクイーンズ・ホテルの海外支店を、わずか半年で以前以上に立て直してくれた。洋介は龍彦とは何年か、私の家で一緒に暮らしたことがあった筈だな」 「……！」 後ろに下がって、真澄は目を見張った。ホテル再建のことは既に知っていたが、あくまでも東条グループ全体の努力の成果、とされ、その立て役者が彼だとははっきり伝えられていなかったのだ。それで彼に、皆の注目が集まっている理由がわかった。 ──すごい、やり手の人なんだ……── 思わずそっと首を伸ばし、皆の頭ごしに彼を見つめる。龍彦は端正な顔にかすかに笑みを浮かべ、まず兄に、それから父に向けてより丁寧な挨拶をしている。父はさすがに年の功で、穏やかに受け答えしていた。その為か兄の洋介もリラックスした様子になり、今度は彼ら全員を囲み、人だかりが出来始めた。そのまま談笑が始まる。真澄はほっとし、父を気遣わしげに見やった。 ──大丈夫かな、父さん……── 本来なら、父はまだ家か、葉山の別荘で安静にしていなければならないのだ。夏のパーティの出席は負担の筈である。 皆へのご挨拶が済んだら、あまり長居しないで、早めに父さんを部屋に連れていこう、そう真澄が決意し、食べ物を取りに行こうと踵を返しかけた時、 「よお、茂さん。元気そうじゃないか。今は別荘で優雅に療養生活かい」 男が一人、そう言いながら他の客たちをかき分けて近づいてきたのだ。 真澄はぎょっとした。父の姉婿の信治だった。このクイーンズホテルの会長だが、明らかに酔った足取りで父の傍に割り込んでくる。さっき総帥が、『経営をしくじった娘婿』と言ったのは彼のことである。 悪いことに、ちょうど総帥への挨拶がすみ、客たちはまた、それぞれ分かれて父や洋介、龍彦たちを囲んで話を始めた頃だった。そして父の傍にはそれほど大勢がいない。兄は少し離れたところで、親族たちと何か熱心に話し込んでいて、まだ気づかないようだ。 真澄は急いでまた、父の傍に歩み寄った。父は困惑した様子で、それでも笑顔で受け流そうとしているが、信治はさらに絡み、前よりも大きな声でこう言った。 「全く、羨ましい話さ。あんたもそのせがれも、総帥の直系ってだけで、病弱だろうが七光りだろうがいいところに取り立てられて、なんの苦労もしないでふんぞり返っていられるんだから！」 「……！」 聞いたとたん、真澄はむっとなった。そんないい方で兄や父を侮辱するなんて許せなかった。急いで車椅子の前に立つと、小さく、だがきっぱりと言った。 「父や兄のことを、そんな風に言うのは止めて下さい、信治伯父さん！」 「なにっ……」 信治は一瞬、ひどく意外そうな顔をしたが、すぐに肥満した顔に、嫌な笑みを浮かべた。 「なんだ、お前は。貰いっ子のくせにそんな口をきいていいとでも思っているのか？」 「……！」 ことさらにどら声を張り上げられ、皆に注目されて真澄はぎょっとした。つい怒ってしまったが、それが父や兄に恥をかかせることになったのではないか。 もともと信治は真澄にとって苦手な親族だった。いつもこちらを見下した態度で、それでいて妙にねちっこく絡んでくるようなところがあるのだ。 「いや、申し訳ございません、信治さん」 「えっ……」 それでも父を守ろうと、懸命に言葉を継ごうとしたとたん、その父が後ろから穏やかに言った。 真澄は思わず振り返った。父はちらりと息子に目配せし、それから笑顔のまま、信治に向けて言葉を続ける。 「確かにおっしゃるとおり、私がこの通り、今は息子たちに助けてもらわないとまずい状態ですからな。不甲斐ない親を心配したあまりの子供のこと、どうかお許し下さい」 言われて、信治の方が今度はひどくうろたえた。顔が見苦しく赤らんでいる。父のあくまでも落ち着いた態度が、信治のみっともない姿を際立たせたようだった。 「ふ、ふん……」 信治は親子を睨みつけると、まだ何か言いたそうに唇を開きかけた。だがその時、総帥が不快そうな顔をして彼を呼んだので、うって変わってうろたえた顔できびすを返す。 ほっとした真澄は、父を振り返ろうとしてふと視線を感じ、顔を上げた。 「えっ……？」 つい今まで総帥の傍らにいた筈の龍彦が、何故か、より近いところに立っていたのだ。ちょうど真澄たちの方に来かけ、足をとめた、という様子で、じっとこちらを見つめている。 視線が合っても、龍彦は目をそらさなかった。その茶色の瞳が、真澄の黒く大きな瞳をじっと見つめる。意味が分からないまま、真澄は射すくめられたように動けなくなった。 「……」 やがて龍彦がその口元にかすかに笑みを浮かべ、視線を外すと、真澄は思わずため息をついた。 「真澄、何やっているんだ！」 あわてた様子で、ようやく兄が近寄ってくるまで、真澄はそのまま、しばらく呆然としていたのだった。 |