| ──そして、コンクールの日、やはり、怜人は三位以内に入ることは出来なかった。 このコンクールは、全ての演奏が終わった後、二時間ほどの審査ですぐに結果が出る。結局、一位を取ったのは、昨日リハーサルで会った、あの少年だった。 「──元気出して。結果が出ちゃったものは仕方がないわ。まだ怜人くんは十三なんだし、来年また、頑張ればいいのよ」 彼が拍手に包まれているのを横目で見ながら、遠藤が、精一杯優しい声でそう言ってくれた。 「……はい」 怜人はしょげながら、それでもうなずいた。自分が入れなかったのも当然だと思った。昨日は全然眠れなくて、集中が出来ないまま、苛々した状態で本番を迎えてしまったのだから。 「あの、昨日……本当に、すみませんでした。遠藤先生」 怜人はそのまま、遠藤に頭を下げた。言われたことはまだ、心の中にわだかまっていたが、結局昨日、一晩迷惑をかけたことは謝りたかった。 「え、いえ。その……」 と、遠藤はまた、少し困った様子になり、口の中でもごもご言いながら目を背けた。 あれ、先生もこんな顔をするのか、と意外に思いながら、怜人は彼女と連れ立って、すぐにホールを後にし、ホテルに戻った。天気は更に悪くなり、今日は朝から、みぞれのように冷たい雨が降っていた。 「──九条怜人様、お母様よりメッセージが入っておいでです。お帰りになられましたら、すぐこちらの番号に、ご連絡されるようにと……」 と、帰ってくるなり、フロントで日本人のスタッフに声をかけられ、怜人はドキリとした。 ──そうだ、結果を知らせるんだった……── 暁人が入院中で母が付き添っている為、携帯を使うことが出来ないので、両親は特別に、病院に電話をしてもいい、という許可を貰っていた。暁人が長く入院しているので、こういうことも比較的、融通がきくのだ。 怜人は急いで自分の部屋に戻り、また受話器を取った。遠藤もついてくる。最初出た看護師は、すぐに母に代わってくれた。 「……あ、もしもし、母さん？ うん……ごめん。三位には入らなかった……四位だったけれど」 「そうか……いいのよ、初めてで一人だったのによく頑張ったわね。偉いよ」 「うん、……？」 怜人は眉をひそめた。母の声が、なんだか昨日よりもさらに元気がない。様子がおかしかった。 「母さん、どうした？ 何かあったの？」 「──あのね、怜人。コンクールが終わったばかりですまないけれど、お前、なるべく急いで帰ってこれる……？」 「えっ……！」 悪い予感が、胸を貫いた。怜人は思わず受話器にかじりついた。傍らで聞いていた遠藤も顔を上げた。 「なに、どうしたの、母さん！」 「その……暁人の具合が、本当に良くないの。お父さんと相談して、コンクールの本番が終わるまで、お前には黙っていよう、って決めたんだけれど……。出来るだけ早く帰ってきて欲しいのよ。どうしたのかあの子、昨日からずっと、急に熱が上がって……」 「……！」 聞いた瞬間、怜人は凍りついた。 「昨日、って……」 「そうなの。だから、出来るだけ早く……もしもし、怜人、聞いている？」 母の声が、ひどく遠く聞こえた。その様子を見て、あわてて遠藤が代わった。 「もしもし？ 遠藤です。……え！ わかりました。はい。出来るだけ急いで帰りますので……」 てきぱきと話す彼女の傍らで、怜人はただ呆然としていた。ただ昨日、という文字が、真っ白になった頭の中で、ぐるぐると回っていた。 × × × 「暁人……！」 遠藤がてきぱきと手配してくれて、急遽予定を変更し、その日の夜の飛行機で怜人は帰国した。そのままタクシーで、暁人が入院している病院に駆けつけた時には、日はすっかり暮れていた。 「怜人、よかった！ さあこっちに……」 遠藤とともに、病室にかけつけた怜人の瞳に飛び込んできたのは、小さな身体にチューブをいくつも差し込まれ、顔が見えなくなるような大きな呼吸器をあてがわれて、ぐったりと横たわる弟の姿だった。その呼吸の音が、やけに大きく聞こえた。 付き添っていた憔悴した様子の両親が、手をさしのべた。怜人は両親に抱えられるようにして、ベッドの傍らに寄り添った。全身が震え、足元がぐらつくような感覚があった。 「今は、容態は落ち着いているんだけれど……熱が下がらないの。どういうわけだか、風邪を引いてしまったらしくて……その前も熱っぽかったんだけれど、一昨日の夜中に、それが急に高くなったのよ。お前に電話した後ね」 「先生は出来るだけのことをして下さったから、今、様子を見ているんだ。怜人、急がせてすまなかったね。もし良かったら、少し休んでから……」 その言葉に、怜人は激しくかぶりを振った。 「いやだ。おれ、暁人のそばにいる……！」 「そうかい？ じゃあほら、座りなさい。父さん達はこれから担当の先生とお話しがあるから、お前が代わりに、そばについていてやっておくれ」 「……」 ──そうして、両親と遠藤が出ていった後も、怜人は身じろぎもせず、暁人を見つめていた。 ──暁人なんて、いなければいい……！── コンクールの前夜、心の中で呟いてしまった言葉が、今、怜人を打ちのめし、責め苛んでいた。 母さんがおれに電話した後、暁人は具合が悪くなったのだ。自分のせいなのだ。暁人が具合が悪くなったのは。 ──おれは、自分のことしか考えていなかった……── 自分だって小さい頃、よく熱を出したではないか。昨日まで全然元気だったのに、突然熱が出て、ベッドから起きあがれなくなってしまったことだってあった。 ましてや、暁人は生まれつきとても体が弱いのだ。ほんの少しのことで一気に容態が悪化することだってあり得る。そんなことは、考えればすぐわかることだったではないか。なのに自分は、ちょっとだけ会った暁人が元気そうに見えたからと、勝手なことばかり思っていた……。 「……！」 その時、ふいに窓の外が明るくなり、怜人は驚いた。 振り向くと、病院の外の河川敷で、花火がいっせいに上がっていた。今日は、秋祭りの最後の夜だったのだ。そのフィナーレを飾る、花火大会が始まろうとしていた。 ──いけない、ブラインドを降ろさないと……── そう思って立ち上がりかけた。この病院は、病室は窓が全て防音になっているのでうるさくはないが、この光が暁人の眠りを妨げたらまずい。 「……」 その時、暁人がかすかに身じろいだ。あわててその身体に身を寄せる。だが、暁人はそのまま、また深い眠りに引き込まれていくようだった。 「暁人……」 そんな弟を見つめているうちに、怜人の瞳に、初めて涙が浮かんだ。 「暁人……ごめんよ。おれのせいだ……」 何故、自分はあんなことを思い、口にしてしまったのだろう。言葉は戻すことは出来ない。 窓の外で、花火がまた光った。それで一度、おぼつかない足取りで立ち上がり、ブラインドを降ろした。無数の華やかな輝きが、目を灼くようだった。 怜人には、それがまるで自分を罰する炎のように思えた。そういう炎があるのだと、どこかで聞いたような気がする。 もう一度ベッドの傍らに腰を下ろすと、怜人はそっと、繋がれているチューブを動かさないように気をつけながら弟の手を取った。壊れてしまいそうな小さな手だった。その感触に、また涙が浮かんでしまい、あわててこらえた。自分には、泣くことは許されないと思った。 ──神様、どうか暁人を、助けてください……！── そっとその手に頬をすり寄せ、体を震わせながら、怜人は心からそう祈っていた。ブラインドの隙間から、外の花火の輝きが、まだ微かに漏れていた。 |