| 「ふう……」 九条怜人はビルの屋上で、大きく息を吸い込んだ。まだ夕焼けの光がかすかに残る空に、星がいくつも瞬いている。 日本は、まだ蒸し暑いかなと思っていたが、夏の盛りとは違う、乾いてひんやりした空気がとても心地よく、そのまま大きく伸びをして首をぐるりと巡らした。 ──とたん、すぐ向こうの、白い大きな建物が目に入り、思わず顔をそらしてしまった。 この季節に日本にいるのは、本当に久しぶりだ。十九歳でドイツに留学した後、卒業後はそのまま現地でピアニストとしてデビューし、そこを基盤としてずっと活動を続けてきたのだから。 怜人の実家のある、東京都の西側に位置するこの市では、近接する他の数市と合同で毎年、十月の連休を利用し、三日間に渡る大がかりな祭りが開かれる。そのフィナーレを飾る河川敷での花火大会が、まもなく始まろうとしているのだった。 フェンス越しに見おろすと、会場の土手やその近くの道は、屋台や花火を待つ人々で既にぎっしりと埋め尽くされ、下の地面が全く見えないほどだった。けれどこの、河川敷近くのスーパーマーケットの屋上は、普段は解放されていない為かちょっとした穴場で、見物客はいるものの、下ほど混雑してはいない。 「……！」 と、河の方から吹きつけてきた風の冷たさに、怜人は思わず身体を震わせた。昼間はまだあんなに暑かったのに、日が沈んだ後は急に気温が下がる。高いところにいるので当たりも強い。 「暁人、……」 心配になって、一緒に花火見物に来たかたわらの弟を振り返る。八つ年下の暁人は、子供の頃、この季節になるといつも熱を出したのだ。と、 「──ほら暁人。こいつ着てろ。ここ、風が来るから」 弟を挟んで反対側に立っていた不破鷹生が、ひょい、と自分のジャケットを脱ぎ、無造作に彼の肩にかけた。 「有り難う。でも、鷹生は寒くない？」 暁人は素直にそれを受け取り、心配そうに鷹生を見上げた。夕暮れの薄明かりの中に、白い小さな顔がぽっかり浮かんでいる。怜人は思わず笑みを浮かべた。大学三年生だから、もう二十歳になっている筈なのに、とてもそうは見えない。一緒にいると、彼より二歳年上の鷹生が随分と大人びて見えた。 二人はともに、怜人が以前卒業した、都内にある私立の芸術大学、青嵐学園音楽部の二年生である。暁人は今日、日本でのコンサートデビューの為一時帰国していた兄の怜人に会いに、実家に帰ってきたのだった。その時、鷹生も一緒だったのである。怜人の留学の話を聞きに来たのだ。 「平気だ。それより暁人、お前は怜人さんとここにいろよ。おれは花火が始まる前に、下の屋台で食い物買ってくるから」 「えー、それじゃ僕も一緒に行くよ」 「駄目だ！」 まるで子供に言い聞かせる父親のような口調で、鷹生はきっぱりと言っている。ついさっきまで、客間でかしこまって自分の話を聞いていた時の姿とは、随分、違う気がする。 「下、すげえ人混みだぞ。お前なら人に酔っちまう。それに、ここからだとけっこう距離があるから……。待ってろ、な？」 「暁人、鷹生くんの言うとおりだよ」 「うん……」 怜人がそう言うと、暁人は少し不満そうながら素直にうなずき、借りたジャケットに袖を通し始めた。と、鷹生は苦笑して続けた。 「ほら、食いたいものがあったら言えよ。買ってきてやるから」 とたん、暁人はまた、ぱっと嬉しそうな顔になった 「ええっとね、絶対たこ焼きは欲しい！ このスーパーで売ってるのじゃなくて、外の屋台の奴。あと、かき氷も！ それから出来たら焼きそばも……」 「わかったわかった。かき氷はメロンか？」 「うんっ！」 元気よくお返事して、それからさすがに恥ずかしそうに頬を赤らめた。鷹生は苦笑したまま、目を細めて彼を見ている。 「お前、見かけによらずジャンクフード好きだよなー。マックとかも大好きだし」 「だって、病院じゃそういうものって食べられなかったんだもの」 「……」 その言葉に、怜人は思わず弟を見た。と、暁人は笑顔でくるりとこちらを振り向いた。 「ねえ、兄さんはなに食べたい？」 「あ、すみません。俺、勝手に色々、決めちまってて……」 鷹生もこちらに向き直り、頭を下げる。 「ううん、おれも暁人と同じでいいよ。そういうの食べるの、久しぶりだから……。使い走りにしてすまないね」 内心の動揺を隠して、そう答える。と、暁人が嬉しそうに言った。 「あのね、鷹生の方がもっと見かけに寄らないんだよ。彼、すっごく優しくてマメなんだ。この花火を見る場所だって、去年のお祭りに来た時、君が見つけてくれたんだものね」 「……余計なこと言わなくていい」 と、鷹生は暁人の頭を軽くこづき、それから怜人に軽く一礼して、きびすを返し足早に歩き出した。その端正な、近寄りがたいような美貌が、かすかに赤く染まっている。 ──まずいな……── 彼の姿を見送りながら、怜人はそっと自分の右胸を押さえた。 さっきからずっと、胸のあたりがちりちりと痛んでいる。かすかだが、無視出来ないほどの痛みだった。あの日のことを思い出す度に、痛みはいつも、責めるようにやってくる。 暁人に、一緒に花火を見に行こう、と、誘われ、家から車で十分ほどのこの河原に来たけれど、やっぱり断ればよかったかもしれない。 情けない。もう十五年も前のことなのに、まだ忘れられない。同じ場所にいるからだろうか。 それに、気づかずに暁人達についてきたけれど、ここからは……。 「兄さん、やっぱり鷹生、留学するんだよね……？」 ──と、ふいに暁人がそう聞いてきたので、怜人は急いで気を取り直した。 「ああ。クラシックで一流のソリストになりたかったら、留学は是非ともするべきだと思う。そっちで行われるコンクールにも、出来るだけ出場した方がいいよ。おれが聴いても、鷹生くんはそれにふさわしい才能を持っていると思う。学長もそうさせたがっているし、行くならなるべく若いうちがいい。彼は、もうすぐ二十二だろ？ むしろ遅いくらいだよ」 「そうだね……」 暁人はうなずき、しばらくフェンス越しの光景に目を向けていた。 「──そういえば、僕が五歳の時だよね？ 兄さんが初めてコンクールに出たの」 ふいに、暁人がこちらに向き直ったので、怜人はまたドキリとしてしまった。 「……ああ」 「兄さん、あれからずっとこの時期は、コンクールに出てたよね……。一緒にお祭りに来たのは、初めてだよね？」 暁人はさらに言葉を続ける。大きな黒い瞳が、何故かひどく真剣に、こちらを見ている。 普段とは違う弟の態度に、怜人はたじろいだ。まさか……。 「……」 まるで、呪縛されたように弟を見つめ返しながら、怜人は自分の脳裏に、あの日の記憶が鮮明によみがえってくるのを感じていた。そして、苦い想いも。 |