| ２ 「──殿下、国王陛下が今日のように強い痛みを訴えられることは、以前からあったのですか？」 「いや、ここ一週間くらいのことです。それまではそんなことはありませんでした」 「では、その時の処置はどのようなものだったのでしょうか？」 「主治医の先生（ドクター）がいつも痛み止めを処方していたのですが、これほどの事態になったのは初めてです」 「……わかりました」 怜が空港に降り立ってから、まだ三十分も経っていなかった。アレクサンドルはリムジンを可能な限り急がせ、王宮に乗りつけると、挨拶などは一切抜きで、怜を父の静養する離宮へと案内しているところだった。 リムジンの中で着替えた白衣の裾をなびかせ、怜は手際よく聞いてくる。アレクサンドルはそれに出来るだけ丁寧に答えていたのだが、やがてあることに気づいてぎょっとした。 アレクサンドルは、衛兵たち数名とともにほとんど全力で走ってここまで来たのだ。なのに、怜は平然とそれについてきたのである。しかも彼は、かなり重そうな診療鞄のアタッシュケースを抱えたままなのだ。あまりに自然に隣にいたので気がつかなかったのだ。 「……！」 思わず怜を見つめ直す。と、 「……何か？」 怪訝そうな顔で見上げられ、アレクサンドルは急いでかぶりを振った。 「あ、いえ！ それより先生、失礼いたしました、お荷物をお持ちします」 「大丈夫です。それより急ぎましょう、離宮はこちらでしたね？」 怜は笑顔で断ると、王宮から延びている回廊の先を示した。 そうしながら怜が足を速め、少し前に出たので、ちょうどアレクサンドルや衛兵たち、屈強な男全員が、白衣を着たほっそりと華奢な医師につき従うような格好になった。 アレクサンドルは思わずまた、彼を見つめ直し、それからすぐにうなずいた。 「そうです。ご案内いたします！」 × × × 「父上！」 離宮にあるニコライの病室に駆けつけた時、アレクサンドルの目に飛び込んできたのは、ベッドで苦しげにもがく父と、枕元でただ何もせず、おろおろしているミハイルの姿だった。そしてさらにその傍で、一度国王が断ったはずの、グレゴーリが連れてきた医者がうろうろしている。主治医の姿はなかった。この医師やミハイルに追い払われてしまったようだ。 「──失礼」 けれど怜は、それらに一切構わなかった。中に踏み込むと、呆然と怜を見つめるミハイルと医者とを静かに、けれど断固として押しやった。そして病人の傍らに立ち、顔をのぞき込んだ。 「陛下……ニコライ国王陛下。お苦しいのですか、私の声がおわかりですか？」 その声に、アレクサンドルは眼を見張った。それは、空港で聞いた彼と英語と同じくらい正確で美しい、エリシアの言葉だったのだ。 国王はあえぎながらも目を開け、怜を見つめた。とたん、その瞳が輝いた。何か言いたげに唇を動かすが、声にならない。それを押しとどめ、怜は近くに置いた薬類に目を走らせ、言った。 「まず、お身体を楽にいたします、よろしいですね？」 国王がうなずく。アレクサンドルは眼を見張って二人を見つめた。父の瞳にこれまでにはなかった光が戻ってきている。まるで怜の姿や言葉そのものに、力を与えられたかのようだ。 アレクサンドルが見守る中、怜は国王のパジャマを緩めさせ、持ってきたアタッシュケースを開けて消毒液ですばやく手を清めた。その後、聴診器とパック詰めの注射器を取り出したところで、父がまた苦しげにあえぎ始めた。 「父上！」 アレクサンドルは身を乗り出し、その身体を押さえた。怜は驚いたようにその黒い瞳でこちらを見たが、すぐに感謝するように軽く会釈して、手際よく国王の診察をし、パジャマの腕をまくった。 その時、扉の向こうが急に騒々しくなった。 「おい、アレクサンドル！ 一体どういうつもりだ、こんな勝手な振る舞いをしおって！」 グレゴーリがようやく追いついてきたらしい。あたりかまわぬ大声で怒鳴りつける。後についてきたイヴァンがそれを止めようと躍起になっているが、衛兵たちに止められている。臣下では王弟の行動を押さえることが出来ないのだ。 「先生、父を頼みます！」 アレクサンドルはとっさに立ち上がった。もう父から手を放していても大丈夫だったのだ。怜がうなずくのを確かめて扉の前に立ちはだかる。怜は眼を見張ったが、すぐに熟練した手順で国王の腕を縛り、その血管に注射器の針を差し込んだ。 「貴様っ！ ここを通せ。お前は自分が何をしているのかわかっているのか！」 グレゴーリが叫ぶ。だがアレクサンドルは、一歩も引かず扉の前に立ちはだかった。怜と、彼を認めた父の表情を見た瞬間、彼を信じようと決意していたのだ。幸い、グレゴーリの味方であるはずのミハイルも医者も、おろおろしているだけで手出しが出来ない様子である。 「初対面の医師にそんなことをさせて、許されるとでも、……！」 その時、突然、怒鳴り続けていたグレゴーリが、途中で言葉を切り、呆然とした。それでアレクサンドルも思わず振り向いた。 一瞬、奇跡が起こったのか、とそこにいる全員が思った。あれ程苦しんでいた国王の呼吸が、見る間に安定し、表情が和らいだものになったのだ。 国王は目を開き、怜を見つめた。 「あなたは……？」 すると、怜は微笑んだ。これまでとは違う、相手を落ち着かせるような、包み込むように優しい笑みだった。 「初めまして。陛下のご親友でしたイサオ・マツザキ医師の弟子で、レイ・シノハラと申します」 また、エリシアの言葉で怜が言った。それを聞いて、グレゴーリがさすがに顔を赤くした。 「やはり、イサオの……」 国王は深いため息を一つついた。震える手で、怜のほっそりとした手を取る。その瞳が懐かしさに潤んでいた。 「ようこそお越し下さった、シノハラ先生。あなたのエリシア語はイサオにそっくりだ。……どうか私の治療をあなたにお願いしたい」 「光栄です。師にはとても及びませんが、全力を尽くさせていただきます、陛下」 「ありがとう、頼む……」 うなずき、国王は怜の手を取ったまま、少しの間目を閉じていた。それからこちらに向き直る。 「アレクサンドル、よい先生を連れてきてくれたな。……イヴァン公、そなたの亡き父上にも感謝する。ミハイルよ、お前からも二人とシノハラ先生に礼を言うように」 そう言うと、また瞳を閉じ、枕に顔をうずめた。痛みとの闘いに疲れ果てていたのか、すぐに寝息を立て始める。 怜は丁寧に、国王に羽根布団をかけなおした。そのまま眠る姿をしばらく見つめる。 アレクサンドルは、呆然とそんな怜の姿を見ていた。ふいに、子供の頃に見た教会のフレスコ画を思い出す。病人を抱え、慈愛に溢れる笑みで見おろしていたのは天使か……それとも聖母だったろうか。 「……」 その時、視線を感じたのか、ふと怜が顔を上げた。アレクサンドルを見つめ返し、照れたように微笑む。 「……！」 とたん、ドキン、と、胸が脈打ち、アレクサンドルははっとした。 同時に頬が火照るのを感じ、一体どうしたのだ、と当惑した。いかに綺麗とはいえ、彼は男性ではないか。なのに、これではまるで……。 いつものように落ち着いた態度で、さり気なく目をそらそうとしたのに、アレクサンドルはそれがどうしてもできなかった。ミハイルのうろたえた表情も、グレゴーリが怒りに満ちた目で自分を睨んでいることも全く意識になかった。ただ、その美しい黒い瞳に釘付けになっていた。 |