| ３ 「──シノハラ先生！」 病室の控えの間から、ため息とともに出てきた怜に、アレクサンドルは急いで駆け寄った。怜は驚いたように眼を見張ったが、すぐに笑顔になる。それを見て、かすかにまた胸が脈打った。 「まだこちらの方においででしたか。王宮に用意させた部屋におられるかと思ったのですが……」 「ええ。主治医の先生から、これまでの陛下のご病状を聞きまして……。カルテやレントゲン写真も拝見させていただいたところです」 「そうでしたか……。他に何か必要なものがあれば、なんなりとお申しつけください」 「ありがとうございます。ちょっといい空気を吸おうと思っていたのです」 照れたように笑う。あれから数時間が経っていた。国王は安らかに眠り続け、王宮内には何週間ぶりかで安堵の空気が流れている。 アレクサンドルは怜を見つめた。心配がこみ上げてきた。顔に疲労がにじみ、綺麗な黒い瞳が少し充血している。無理もないと思った。長旅の後、いきなりこんな修羅場のような状態に出会ってしまい、さらにそれを見事に納めたのだから。 どうか少しお休みになって下さい、と言いかけた時、ふいに怜は真剣な眼差しでアレクサンドルを見つめ返した。 「あの、殿下。よろしければ、少しお時間を頂けますか、父上のご病気の件でお話ししたいことがあるのです」 そう言って、アレクサンドルを控えの間に導く。 「──では、やはり手術が必要ですか」 机の上には、既に父の病気の資料が山積みになっている。その前で二人は椅子に座って向かい合った。怜は一枚のレントゲン写真を示し、言った。 「はい。まだ推定の段階ですが……おそらく。明日、陛下がお目覚めになられたあと、主治医の先生が院長を務めておいでの中央病院で、確認の検査をする予定ですが……。ややわかりにくい場所ですが、以前切除したガンを再発された可能性が高いです。他の皆様には、検査の結果が出てから申し上げようと思うのですが……」 「わかりました」 アレクサンドルは改めて感心していた。今日初めて父に会い、さらに旧式のレントゲンとカルテに目を通しただけで、ここまでわかるのか、と思う。医学には特に詳しくはないが、日本などの先進国では、とうの昔にCTスキャンやMRIなど、もっとずっと進んだ技術を使っている筈なのに。 そう考えていたら、また気づかないうちに彼を見つめてしまっていたらしい。不思議そうな顔で見つめ返されて、アレクサンドルは急いで目をそらした。 「ですが……どうして私にお話し下さったのですか？ 弟……ミハイルがさっきまで、父のことをご説明させていただいていた筈ですが」 父が眠りについた後、グレゴーリはさすがに少し大人しくなったが、『いつも陛下の看病をされているのは皇太子殿下だから』と嘘を言い、ミハイルを怜への説明役に残して、アレクサンドルを病室から追い出してしまったのである。 すると、怜は笑みを浮かべた。 「いつも陛下のご看病をされているのは、アレクサンドル殿下でしょう？ だからです」 「えっ……？ どうしてわかったんです!?」 言った後で思わず口を押さえる。怜の笑みが広がった。 「離宮に行く途中、陛下のご病気について質問した際に、殿下は迷われず正確に答えてくださいましたから。それに、陛下を押さえた時の仕草が優しく、落ち着いていて、慣れている感じがしたのです」 「……」 アレクサンドルは眼を見張った。そんなことまで気づいていたのか。 と、怜はふと、すまなそうな顔になった。黒い瞳に気遣いと同情の表情が浮かぶ。 「あの……お礼とお詫びが後になってしまいましたね。先ほど……到着した時に、色々助けてくださって本当にありがとうございました。そのせいでご迷惑をおかけしたようで……」 「……いや、こちらこそ、お見苦しいことになりまして申し訳ございませんでした」 おそらく、彼は私の宮廷での立場を知っているのだな、と気づき、アレクサンドルは頬が染まるのを感じた。 確かについさっきまで、グレゴーリやその腰巾着の廷臣たちに、たっぷり嫌味と説教をされていたところだ。ただ幸い、怜への説明の後で戻ってきたミハイルは、何故だかぼんやりしていて、いつものようにグレゴーリの尻馬に乗らずにいる様子だった。 それで気にかけていたことを思い出し、アレクサンドルは急いで聞いた。 「失礼ですが、叔父が……グレゴーリ公が今、こちらに参りませんでしたか？」 「え？ いいえ」 怜は不思議そうに首を振り、それからふとまた、微笑んだ。 「あの、ご心配してくださったのですか？」 「あ、いや……」 グレゴーリの嫌味は慣れていたからいつものように聞き流していたのだが、その後、国王が眠ったのをいいことに、彼がまた離宮まで押しかけていって、怜にまで迷惑をかけるのではないかと気になっていたのだ。だが幸い、そうではなかったらしい。 ほっとすると同時に、素直に感謝の表情を浮かべてこちらを見ている怜に、アレクサンドルはすまなさがこみ上げてきた。 「もう一つ、お詫びをさせて下さい。シノハラ先生に初めてお会いした時、私はずいぶん失礼なことを考えていたのです」 「……？」 思いきってそう言ったとたん、怜は微笑んだまま目を丸くする。そうするとその瞳がさらに際立ち、アレクサンドルは頬に血が上るのを感じた。よりによってどうしてこんな時にそんな表情をするのだろう、と思う。なんて綺麗な瞳だろう。黒い瞳というのは、みんなこうなのだろうか。 「その……先生があまりにお若くて、綺麗…いや、優しげな方なので、大丈夫かと思ってしまったのです。でもそれは間違いだったとすぐわかりました」 わざとまっすぐに怜を見る。怜は微笑んだままだ。 「到着されてすぐに、先生には失礼なことをしてしまい、さらにひどく急かすようなことになってしまいました。なのに先生は、父の痛みをあれ程すばやく納めて下さいました。それに、今も自然にお使いですが、エリシアの言葉も本当にお上手で……。父があんなにも安らかな顔を見せたのは久しぶりなのです。失礼ですが、医師として本当に優れた方なのだと思いました」 「そんな……」 白い頬をかすかに上気させ、怜は大きく手を振った。ひどく困ったような口調になる。その姿に、アレクサンドルはまた、おや、とひそかに思った。 「国王様の痛みがすぐに治まったのは、日本ではすでに普段使われている痛み止めを使用したからで……大したことではないのです。それに私の勤めている大学病院は、救急指定でしたので、一刻を争う患者さんがいつも搬送されてきて、医師や看護師は皆、毎日走り回っていました。言葉のことは……私が代理でこちらに参ると決まってから、大急ぎで師に教わったもので……お恥ずかしい次第です。おかしな発音がたくさんあると思います。それに……」 また照れたような笑みを浮かべる。 「私に、そんな印象を持たれるのは当然だと思います。年齢は仕方がないことですが、この通り頼りなさそうな外見ですから……。もう少しましな顔だとよかったのですが」 アレクサンドルは驚いて怜を見つめ直した。 ──もしかして、彼は自分がどんなに綺麗なのか、わかっていないのか……？── 急いでそんなことはない、と言いかけたが、怜は目をそらし、何故か少し慌てた様子で立ち上がった。 「あの、実は……国王陛下にお渡ししてくれと、師からの手紙を預かっていたのです。私は明日の早朝、中央病院で検査の準備を打ち合わせないといけませんので……。もしよろしければ殿下から、お渡し願えませんでしょうか。早く差し上げた方が喜ばれると思うのです」 「はい、もちろん、……！」 うなずいたアレクサンドルは、次の瞬間ぎょっとした。怜がくらりと足をもつれさせ、前に倒れそうになったのだ。 「え、あれ……？」 「先生っ！」 とっさに立ち上がって手を伸ばし、支える。とたん、その身体がもたれかかり、感触が伝わってきた。 「……！」 なんて華奢な身体だ、とアレクサンドルは思った。ほっそりとしなやかで、アレクサンドルの身体の中にすっぽりと収まってしまう。かすかな鼓動が伝わってくるような気がした。 ──抱きしめたら、折れてしまいそうだ……── ごく自然にそう思い、それから愕然とした。一体、何を考えているのだ。 「あ……」 何故か、怜も一瞬、そのままで身動きしなかった。呆然とアレクサンドルを見つめている。 「大丈夫ですか、先生……？」 我に返ったアレクサンドルは、急いで怜を支え直した。一旦止まった心臓が、今度は激しく脈打ち始める。その反応にも驚いていた。 だがその感情を押し殺し、急いで平静な声を出す。感情を殺すのには慣れているつもりだった。 「は、はい、申し訳ございません」 怜はひどく慌てた様子で、身体を放そうとした。とたん、怜の身体から、実に正直な空腹を訴える音が聞こえた。 「……！」 怜は真っ赤になり、あわててうつむいた。何とも可愛らしい、少年のような顔になっていた。 ふと初対面の空港での彼の姿が脳裏をよぎり、アレクサンドルは思わず笑いかけてから、あわてて口をつぐんだ。 こんな時では、誰だって疲れて空腹になってしまうだろう。 「あの、先生。もしよろしければお食事を……」 赤面したままの怜をのぞき込むようにして笑みを浮かべ、そう言いかけた時、 「レイ、まだこっちにいるのか、入っていいか？」 ノックの音とともに、陽気な声が聞こえた。 二人は思わず顔を上げ、それから怜が慌てたように答える。 「あ、ああ、イヴァン？ どうぞ」 急いでアレクサンドルから離れると、すまなそうにこちらに会釈してからドアを開ける。そこには二つ年下の貴族の御曹司が、満面の笑みを浮かべて立っていた。 「飯の準備が出来たぞ。レイ。──あれ、アレクサンドル。どうしてここにいるんだ？」 いそいそと手ずから料理の乗ったワゴンを押し、部屋に入って来る。そしてようやくアレクサンドルに気づいて驚いたようだった。 ──レイ、だと……？ それにイヴァン、だと？── 何故だかひどくむっとして、アレクサンドルはイヴァンを見つめた。どうやら、自分がグレゴーリに絞られている間に、この陽気で気取らない青年は、怜とすっかり仲良くなっていたらしい。 「……いや、父上の容態を伺っていただけだ」 とっさにまた感情を抑え、アレクサンドルはそう言った。そして怜に一礼する。 「お休みの前にお邪魔をして、申し訳ございませんでした、先生。私はこれで失礼いたします」 手紙を取り、自分の懐にしまいながら丁寧に言う。怜は少しとまどった様子でうなずき、それからまた、照れたような笑みを向けた。 「あの……来てくださってありがとうございました、殿下」 「……！」 その瞳で見つめられ、言われたとたん、アレクサンドルはまた心臓が飛び跳ねるのを感じた。 「いえ。──お休みなさい」 なんとかまた平静な声を出すと、アレクサンドルはもう一度怜に会釈し、きびすを返して部屋を出た。背後で怜とイヴァンが、それぞれ自分の背中をじっと見つめていたことには気がつかないでいた。 ──一体どうしたんだ、私は……！── これではグレゴーリと同じではないか、という思いが胸をかすめ、ぶるぶるっと身を震わせた。冗談ではない。 最後に一度、父の寝顔を確かめ、急いで王宮の自室に戻ろうとする。 ──気のせいだ、きっと疲れているのだ。今日はあまりに色々なことがあったから……── 廊下を、そして王宮につながる回廊を歩きながら、アレクサンドルは何度も自分にそう言い聞かせていた。 だが、胸の脈打ちは治まらず、その脳裏からはどうしても、こちらを見てはにかんだように微笑んだ怜の笑顔が、消えようとしないのだった。 回廊の周囲のバラ園から、五月の風が甘い香りを運んでくる。エリシアはようやくこれから、春の盛りを迎えようとしているところだった。 ＥＮＤ |