| １ 「なに……!?」 夕暮れの空港で、アレクサンドルは思わず声をあげていた。 もしかして別人ではないか、と思ったのだ。飛行機のドアから姿を現した彼を呆然と見上げてしまう。 だがそれは確かに、日本から国王の命を救うために派遣された医師、レイ・シノハラ──篠原怜、だった。アレクサンドル達はその出迎えに来ているのだ。 ──確か、私と同い年だと聞いたはずだが……？── あわてて記憶をたぐる。 実際に見ると怜は写真よりもさらに若く、そして綺麗だった。背はさほど高くはないが、顔が小さく、ほっそりとしているので均整のとれた身体つきである。肌は自分が立っている場所からでもわかるほどきめ細かく色白で、着ている深い紺のスーツと淡いブルーのシャツ、紺のネクタイがいっそう際立たせている。 その顔立ちは、はっとするほど秀麗だった。卵形の輪郭に、高く通った鼻梁と、小さく引き締まった形のよい唇。そして瞳は……。 「……！」 はっとした。一瞬、彼と視線が合ったように感じられたのだ。 それは、くっきりとした二重の、吸いこまれそうに黒い瞳だった。エリシア人にはほとんど見られない色だ。 その瞳を一度、まぶしそうに細めて辺りを見回すと、怜はアタッシュケースを抱え、ゆっくりとタラップを降りてきた。 西に傾いた日差しがその全身を金色に照らし出す。同時に風が吹きつけてきて、少しくせのある黒髪をふわりと広がらせた。冬の長いエリシアでは、五月になっても寒暖が激しく、夕暮れになると冷たい北風が吹きすさぶのである。 「──あれが、マツザキ医師の代理だと……？」 その時、叔父のグレゴーリの呟きが聞こえてきて、アレクサンドルはわれに返った。それでようやく、自分が今まで彼に見とれていたことに気づく。 隣を見やると、言葉とは裏腹にこの男もまた彼を凝視していたのがわかった。水色の瞳がぎらつき、粘りつくような光をたたえている。にんまりと笑った薄い唇を舌が舐めた。 「なんだ、全くの若造ではないか！ おまけにまるで女のような顔立ちだ。医師というよりはどこぞの街角で、男に色目を使っている方が似合いそうだが」 「叔父上……」 あたりを憚らない大声に、アレクサンドルは思わず顔をしかめ、小さくたしなめた。いくら相手がエリシアの言葉を知らない、と伝えてきたからといって失礼すぎる。だが、グレゴーリはそれを無視し、反対側に立っていたイヴァンを振り向いた。日本からやって来た医師が御しやすそうだと見て、あからさまに嬉しそうな様子である。 「イヴァン公。父上はひょっとして日本政府に騙されたのではないですかな？ 半年前にお亡くなりになる直前まで、ずいぶんと熱心に交渉しておられたのに、こんな頼りなげな、経験も少なそうな医師を寄こされたとあっては……」 「なにっ……！」 聞いたとたん、やはり呆然と彼を見つめていたらしいイヴァンが、顔色を変えて向き直る。 「イヴァン！」 身を乗り出したイヴァンを、アレクサンドルは急いで止めた。イヴァンには気の毒だが、皇太子のミハイルが王宮に残っている今、エリシアに戻って数ヶ月にしかならない庶子の自分や彼では、まだグレゴーリの言動を抑えるわけにはいかなかった。それにここまで来て、日本側のスタッフや、マスコミも大勢いる前でもめ事を起こされてはたまらない。アレクサンドルはなんとしても父の病を癒したかった。 アレクサンドルの父は、エリシア国王、ニコライ三世である。もともと病弱だったニコライは、ずっと体調がすぐれず、ここ数年は寝たきりの状態であった。冷戦が終わるまで、特例を除きほとんど他国との交流を持たなかったエリシアは、さまざまな分野で欧米や日本に後れをとっており、国内の医師では、君主の病を治療できなかったのだ。 その為、ニコライ国王のもと、長く内務大臣を務めていたイヴァンの父が交渉に当たり、途中、留学先から帰国したアレクサンドルも加わって日本に救いを求めたのである。日本は戦前、エリシアと友好国だったのだ。だが……。 ──彼が、執刀医なのか……── 最初に手術を依頼するつもりだった医師が病に伏していたため、代わりに彼──その医師の弟子である怜が急遽、派遣されることになったのだ。 今、実際にその姿を見、アレクサンドルはつい不安を抱いてしまっていた。地上に降りて日本側のスタッフに案内され、強風に髪やスーツの裾をなびかせて近づいてきた怜は、間近で見るとさらに繊細で綺麗だったが、敏腕な外科医という言葉からは、かなりかけ離れた印象である。 「──失礼いたします」 けれど、そう話しかけてきた彼の声は、思ったよりも低く落ち着いていた。白い頬ににこりと笑みを浮かべる。 「初めまして。エリシア政府のお招きに預かり、日本より参上いたしました。イサオ・マツザキ医師の弟子で、レイ・シノハラと申します」 美しい発音の英語でそう言い、握手の手を差し出す。すると、グレゴーリがアレクサンドルとイヴァンを押しのけるようにして前に進み出たかと思うと、顎を突き出すようにして無言でその手を握り返した。 もともとこの男は、『兄を外国の、それも東洋人の医師になど診せられるか！』と、最後まで強く反対し、自分の推薦する医師に治療させようとしていたせいか、明らかに見くびったような態度を隠そうともしていない。スーツ姿のアレクサンドルやイヴァンとは違い、軍務大臣としての地位を見せびらかそうとしたかったのか、いつもよりさらに勲章をたくさんつけた軍服姿なのでなおさらである。その姿で、彼はまたこう言ったのだった。 「まったく、われわれも馬鹿にされたものだ。こんな経験の浅い若造を寄こすとはな」 「……？」 その言葉に当惑した怜の表情を見た時、アレクサンドルは思わず前に進み出ていた。留学時代に培った英語で、穏やかだがきっぱりと言う。 「シノハラ先生（ドクター）、遠路はるばるお越し下さいまして本当にありがとうございます。国王ニコライの息子でアレクサンドルと申します」 すると、怜は目に見えてほっとした顔になった。さりげなく手を放し、こちらに向き直ってもう一度手を差し出す。馬鹿にした態度のくせに、グレゴーリは怜の手を掴んで放さなかったのだ。 「お出迎え、ありがとうございます。今回の件では色々とご尽力をありがとうございました。出来ればすぐにでも、国王陛下を診察させていただきたいのですが、いかがでしょうか」 美しい瞳で見つめられ、何故かアレクサンドルは頬が火照るのに気づき、自分でも驚いた。 「ええ、ではこちらへ……」 さり気なく視線をそらし、後についてきた衛兵たちに案内させようとする。とたん、 「おい、アレクサンドル！ お前ごときが勝手に命じるな！」 案の定グレゴーリが怒鳴った。どうやら自分の苦手な英語で、二人が会話しているのが面白くなかったようだ。一旦動きかけた衛兵たちが思わず足を止める。それに怒鳴り返そうとしたイヴァンをとっさに目で押さえ、アレクサンドルは毅然と、無言でグレゴーリを睨み返した。自分の立場は承知していたが、この男の態度やその性癖のことを考えると、怜を庇い、守ってやりたいような衝動にかられたのだ。 「……」 一瞬、一同に緊張が走った。その時、 「申し上げます！」 空港内から、また衛兵が一人、こちらに駆けつけてきた。息を弾ませてそこにいる皆に敬礼し、叫ぶ。 「ただ今、国王陛下のご容態が急変されまして、非常に強い痛みを訴えられ、意識を失いかけておられるとのミハイル皇太子殿下からのお知らせでございます！」 「……！」 アレクサンドルは思わず唇を噛みしめた。恐れていた事態が、思ったより早く来てしまったかもしれない。 「──アレクサンドル殿下！」 その時、凛とした声に、ふり返ったアレクサンドルは眼を見張った。怜がまっすぐにこちらを見上げ、きっぱりとこう言ったのだ。 「どうか、私を陛下の所までお連れ下さい。直ちに治療にかからせていただきます！」 黒い瞳がまっすぐにこちらを見る。それは、たった今まで当惑した様子で佇んでいた、繊細な青年の表情ではなかった。 アレクサンドルは思わず怜を見返した。そして、 「わかりました。ご案内いたします」 グレゴーリがわめき出す前にすばやくそう言うと、衛兵にうなずきかけた。 「直ちにシノハラ医師を離宮までご案内するように。陛下のお命にかかわる緊急事態である！」 「──はっ！」 衛兵は一瞬迷った様子だったが、最後の言葉に納得した様子で、すぐにきびすを返した。後ろでグレゴーリがわめいていたが、アレクサンドルは気にかけなかった。用意されていたリムジンにすばやく怜を乗せ、自分も乗り込む。車はあっという間に空港を後にしていた。 |