「──何をしているんだ、ジュンヤ？」 朝の光の中、バスルームから出てきた純也を見て、レオは思わず眼を見張った。彼は両手に色とりどりの薔薇が飾られた、大きな花瓶を抱えていたのだ。 「ええと、昨日の公演でいただいた花を少し生けたんです。居間に置いてもいいでしょうか。……その、昨日はそんな時間、全然無かったし、このままじゃみんな枯れちゃうと思って……」 花の向こうからバスローブ姿の純也が顔をのぞかせ、頬を染めて言う。その首や襟元からのぞく白い肌に、昨夜の行為の証が無数に残っていた。 昨夜、レオがペザーロ財閥の総力を挙げ、ローマに建設した新歌劇場の開場記念オペラ『椿姫』が無事に幕を下ろした。一週間にわたる公演は大成功で、特にアルフレッド役の純也には、それこそ溢れんばかりの喝采と花束が降りそそいだのである。 そして、その祝賀会もそこそこに、レオは純也を邸に連れて帰ると、ほとんどそのまま純也をベッドに押し倒したのだ。──そして、純也の方も当然、すがりついてそれに応えたのだが、翌朝になってレオが目覚めると、彼は先に起きて、何やらバスルームに籠もっていたのだった。 そういえばこいつ、花束を全部持って帰ると宣言していたな、とレオは苦笑し、肩を竦めた。 「構わないが、お前がわざわざそんなことをしなくてもいいだろう。使用人たちにさせればいい」 「そんなのだめです。皆さんがせっかくおれに下さったものだから、ちゃんとしたいんです。セルジオさんも手伝って下さるって言ってたし、花はまだたくさんあるし……」 純也はきっぱりと首を振ると、花瓶を居間に運んできた。──そして窓辺を見、ふいにためらうような表情を浮かべる。そこには赤い椿をふんだんに生けた、別の花瓶があったのだ。ずっとこの部屋に置かれているものである。 「……」 椿と、純也とを見つめ、レオはふいに目を細めた。一瞬、エメラルドグリーンの瞳が遠くなる。 まるでその赤い色に誘われたかのように、五年前のことが鮮明にレオの脳裏に浮かんだ。 × × × ──姉の傍らで、レオはふいに顔を上げた。窓から歌声が聞こえてきたのだ。 「……！」 驚くほど澄んだ、まっすぐなソプラノの声だった。プッチーニのアリアのようだ。秋の晴れた青空に、朗々と響き渡っていく。 一瞬、思わずその声に耳を傾けてしまい、レオははっとわれに返った。 さり気なく立ち上がり、窓を閉めようとする。だが、ゆったりとしたベッドに横たわっていた姉が手を延ばし、レオの身体に触れてそれを止めた。微笑んで首を振る。 「マリア。……いいのか？」 思わず問いかけた弟に、マリアはうなずいた。そして、ふんだんに赤い椿が飾られた枕元の、会話用のノートを取り上げ、ペンを走らせる。 『聴いていたいの。横になってあの声を聴いていると、すごく心が安らぐのよ』 そしてその言葉通りに、うっとりと目を閉じた。 「──そうか」 レオはマリアを見つめ、うなずき返すと、窓を開けたまま傍らに戻った。かわりに姉の身体にかけられた羽根布団を直し、その肩を丁寧にくるんでやる。幼い頃、親代わりだった彼女が、自分によくそうしてくれたように。──そうして触れると、改めて彼女がどんなに病み衰えてしまったかがありありとわかった。 ほんの少し前まで、マリアも美しい声を持っていたのだ。オペラ歌手になりたいという夢を持つほどに。だが半年ほど前、ふいに彼女は病に倒れた。ガンだった。しかも若いため進行が早く、すでにあちこちに転移し、手の施しようのない状態になっていた。そして延命のための手術で彼女は声を失い、二度と歌えなくなってしまったのだ。レオの希望で告知はしていないが、おそらくマリアは自分の身体のことをわかっているだろう。 「開けっぱなしで、寒くないか？」 気遣う弟に、彼女は微笑んだまま首を振る。歌声は止んでいた。 マリアの肌は透き通るように白く、金色の髪を一つのお下げにして編み、垂らしている。レオより十二歳年上だから、三十五歳になるはずなのに、なんだか少女のように可愛く、儚く見えた。唯一似ている、レオと同じエメラルドグリーンの瞳が、弟をじっと見つめている。 そんな姉の姿に、レオはどうしようもない怒りがこみ上げてくるのを感じた。それは、無力な自分への怒りだった。 レオはイタリア南部出身のマフィア、ペザーロ家の分家の庶子として生を受けた。なんの後ろ盾もないまま十七歳で組織の末端に潜り込むと、自分の頭脳と実力だけを味方に、たった六年で一族の命運をになう事業にかかわる幹部にまでなったのだ。 だから姉が入院した時も精いっぱいのことをした。名医のいる病院に移し、そこで最高の部屋と専任の看護師を数名用意させた。そして姉の希望で、赤い椿を部屋中に飾った。この花の原産国である日本では見舞いにはよくないとされているが、姉はオペラ『椿姫』とともに、この花が大好きだったのだ。──だがそれでも、姉の病を止めることは出来なかった。 「……？」 苦い想いを噛みしめた時、ふいにまた、歌が聞こえてきた。 レオは思わず顔を上げた。今度は何故か、誰でも知っている古い童謡だった。おどけた歌詞を楽しそうに、生き生きと歌っている。レオは思わず笑みを浮かべた。マリアも微笑んでいる。 『一週間くらい前から時々聞こえるの。綺麗な声でしょう？ 下の階の患者さんに付き添っている人だと思うんだけれど、声楽をきちんと学んだ声じゃないかしらね。時々私も、声に合わせて唇を動かすの。そうすると自分が歌っているような気がして、幸せな気持ちになれるのよ』 「確かに、マリアが誉めてもおかしくないくらいのいい声だな。……何なら病院のスタッフに誰だか問い合わせて、この部屋に来て歌ってもらうか？ そうすればわざわざ待っていなくても……」 レオはそう聞いた。自分が命じれば大概のことは叶う。だが姉はかぶりを振り、またペンを走らせた。 『いいの。きっとその方も介護でお忙しいと思うし、看護師さんたちはこの病室専属だから知らないみたいなの。それに、』 ちょっとためらってから、次の言葉を続ける。 『やっぱり私、誰かが歌っているのを直には見たくないの。でも、聴いてはいたいから。わがままだけれど、このままがいいわ』 レオは無言でその文字を見つめ、やがてうなずいた。 「──わかったよ。姉上の仰せのままに」 わざと恭しい仕草でおじぎをし、おどけた口調でそう言う。マリアもそれに応え、女王様のように厳かにうなずき、それから姉弟は顔を見合わせて笑った。その笑顔の伴奏のように、歌声が響いている。 ──その時、胸ポケットの携帯が無粋な振動音を上げた。 レオは思わず顔をしかめた。電話の相手はわかっている。直ちに仕事に戻るようにと他の幹部たちがせっついてきたのだろう。レオは、このローマに新歌劇場をうち立てるというペザーロ一族悲願のプロジェクトを実現するため、日本企業との交渉を一手に任されている最中だった。この見舞いも、忙しい合間を縫ってやって来たのだ。 「またすぐ来るからな、マリア」 レオの言葉に、マリアは微笑んでうなずく。いかにも姉らしい優しい笑みだった。 後ろ髪を引かれる思いで病室をあとにし、廊下を急ぐレオの耳に、かすかにまたあの歌声が聞こえてきた。今度は子守歌だった。姉もよく歌ってくれたその歌を、レオは無意識に口ずさんでいた。 × × × 「……！」 椿の花束を持ち、エレベーターに乗り込もうとしてレオははっと振り向いた。左手の、一般病棟のある廊下から、ふいにあの歌声が流れてきたのだ。 とっさに踵を返し、レオは声を追っていた。今日はモーツァルトの有名なアリア『恋とはどんなものかしら』だった。何回か耳にした曲だ。 あれから数週間、マリアの容態は急速に悪化していた。忙しい合間を縫ってレオはできるだけ病院に顔を出したが、その時にも、何度か歌声が聞こえていたのだ。何故かはわからないが、わずかな時間、もう字を書くことも出来なくなった姉と二人で声に耳を傾けていると、心がひどく安らいだのである。だからもしわかるなら、声の主が知りたかった。 今、声は廊下を曲がったらしく、陽気なアリアを口ずさみながら遠ざかっていく。レオは急いであとを追った。追いつけないはずはないのだが、どこにいるのかわからない。誰かに聞こうにも、あたりに人影はなかった。ちょうど夕飯が終わったあとの時間帯だったのだ。 ここか、と声を頼りに一つの廊下の角を曲がろうとした時、ふいに歌が途切れた。その廊下に踏み込んだレオは、眼を見張った。ずっと向こうに小柄な少年が一人、何やら医師に促されて、急いで歩み去るのが見えた他は、誰もいなかったのだ。 ──違ったか……── 思わず心の中でため息をつき、急いで、エレベーターで姉の病室のある階に上がった。ちょうど病室から、転がるように看護師が飛び出してきた。レオを見て大声で叫ぶ。 「ペザーロ様、すぐおいでください！ お姉様がっ……！」 「──！」 聞き終えるより早く、レオは走り出していた。 × × × マリアが亡くなったのは、それからたった一時間足らずあとのことだった。 「……」 レオは呆然と、雪のように青白く美しい姉の死に顔を見つめていた。医師や看護師は臨終を看取ると、いったん病室を出ていった。ちょうど散りかけていた花瓶の椿が、まるで早すぎる死を悼むかのように、その上に数片、深紅の花びらを散らしている。最後まで優しくレオを見つめていたエメラルドグリーンの瞳は閉ざされ、もう二度と開かなかった。 ──何のいい思いも、させてやれなかった……── 涙は何故か出なかった。ただ自分に対する怒りと、悔恨の思いを感じていた。夢も、結婚も、全てを犠牲にして自分を育ててくれた姉の姿が、脳裏に幾つも浮かんだ。 「……？」 その時、どこか遠くで、声が聞こえた気がした。 閉ざせば完全に防音になるこの部屋で、そんな筈はなかった。だがレオの耳には聞こえたのだ。 レオは身を起こし、窓を開けた。外はすっかり暮れていた。さっ、と冷たい初冬の風が、部屋に吹き込んでくる。椿がまた何片か花びらを落とした。 「……！」 その時、澄んだ声が、レオの耳を打った。 「また遭う日まで また遭う日まで 神の御守り 汝が身を離れざれ……」 それは、賛美歌だった。あの声が、死者を悼む賛美歌を歌っていたのだ。 レオは耳を澄ませ、そして眼を見張った。 声が、いつもと違っていたのだ。震えているようだった。もしかしたら声の主も、泣いているのかもしれない、と思った。そう思った時、ふいに哀しみがこみ上げてきたのだ。 「…っ……」 一瞬、獣のような咆吼が口から零れそうになり、レオは思わず手で押さえた。 レオは窓を開けたまま、姉の傍らにうずくまり、声を殺し、泣いた──心の底から。 その間中、歌は続いていた。まるで、レオの心を優しく包み込むかのように。 やがて身を起こし、切っていた携帯の電源をオンにしたとたん、案の定呼び出し音が鳴り響いた。 秘書からだった。進めていた日本企業との交渉がほぼまとまったという。総帥も非常に喜び、レオの手段を高く評価してくれているようだ。 「──そうか」 黙って報告を聞いていたレオは、それだけを言うとまた電源を落とし、窓を閉ざした。それから姉を一度振り向くと、背筋を伸ばし、ゆっくりと、堂々としたいつもの足取りで病室を出た。もう歌声は聞こえなかった。 × × × 「レオ……？」 じっと自分をのぞき込む茶色の瞳に、レオは我に返った。追憶は、わずかの間だったらしい。 不思議だ、とレオは思った。あの時、自分を救ってくれた声の持ち主が、今、こうして傍にいるというのは。 「……」 レオは肩を竦めると、ひょい、と純也が抱えたままの花瓶を取り、椿の近くの窓辺に置いた。 「花がいっぱいの方が、マリアも喜ぶだろう。好きなだけ飾れ」 「……はい！」 純也は嬉しそうに大きくうなずいた。 身を翻し、いそいそとバスルームに向かう純也をふいにレオはとらえ、引き寄せて唇をふさいだ。純也はまた目を見張ったが、素直に微笑み、そっとレオに身を任せてきた。 その小さな身体から温もりが伝わり、愛しさがこみ上げてくる。 俺はいつか、お前にあの時のことを話すだろう。お前の声に、俺も姉もどんなに救われたか──でも、泣いたことだけは言えないな。 そう思いながら、レオは純也を抱く腕に力を込めた。 ＥＮＤ |